雁木町家の魅力
雁木の誕生
高田は江戸時代の初め、慶長19(1614)年から、城下町として整備が行われてきましたが、寛文5(1665)年の冬、豪雪時に襲った大地震により城も街も崩壊。人々は倒壊した家屋から逃げられず、さらに被害が拡大しました。
それ以後、お城の北・西・南を迂回する街道沿いの町人地では、家々の庇を伸ばして連続し、今のような『雁木通り』が形成されてきたと言われています。隣り合う家ごとに少しずつ重なりながら連なる様子に、「渡り鳥の雁行」を連想したのかもしれません。雁木通りは最盛期の総延長が17.9kmにも及びました。
現在も現役で活躍
さて、街の近代化や車社会への変化で、古臭い雁木をやめようということもありました。何度かの大火で焼き払われたこともありました。でも大雪のたびに雁木の役割は見直されて、平成21年時点で約16kmの雁木が現存しています。(高田駅前と本町3,4,5商店街のアーケードを含みます!)
今日でも、私たちが歩いている雁木の部分は、それぞれの家の私有地なのです。大雪のときばかりではありません。雨風や強い陽射しをしのぎ、混雑する車両交通にも安全な通学路として現役で活躍しています。雪国の人々の助け合い・譲り合いの心が、形に現れたものといえるでしょう。
町家の特徴
一般的に町家とは、間口が狭く奥行きの長い敷地の街路沿いに立ち並ぶ商家を指します。上越地域では高田と直江津の雁木通りに多く現存しており、大半が昭和中期から明治期に建てられたものですが、古くは江戸時代後期にさかのぼる町家も残されています。(上越市で公開)
町家の配置は道路に面して平入り、細長い土間の通路(トオリニワ)が雁木から裏の畑まで続きます。土足のまま行き来できるので、家の中にも道があるような感じです。
トオリニワの横に、ミセ、チャノマ、ザシキの主要3室が並び、中央のチャノマは屋根裏まで見える吹き抜けです。天窓や高窓から射し込む光の中に、高い屋根を支える大梁と貫の架構が浮かび、簡素ながら緻密な美しさに満ちています。さらに明治後期より、表と裏の2階をつなぐ渡り廊下がかけられ、まるで劇場のようなドラマチックな空間です。
時代の変遷とともに少しずつ変わってきましたが、その輪郭と構造は、雁木とともに大切に守り続けてきました。「雪国高田の雁木と町家の素晴らしさを、多くの皆様に紹介したい。」と、さまざまな市民活動団体が公開や見学会、個性的な行事を随時開催しています。
[越後高田・雁木ねっとわーく様 ホームページより]